コラム
【思春期】子どもに問題が起きたときの心構え①
2013年11月11日
子どもに問題が起きたときの心構え①
子どもに何か問題が起きたときの心構えとして、最初に心すべきことは
『あきらめて腹をくくる』
ことではないかなと思います。
わかるようでわからないことかもしれません。
また、“言うは易(やす)く行うは難(かた)し”で、簡単なようなことに見えて難しいことだと思います。
「あきらめて腹をくくる」の「あきらめる」とは、
子どもに対して“いろいろな条件を求める”のをあきらめる
ということです。
「腹をくくる」とは、
何の条件を満たしていなくても、『ありのままの子どもを受け入れてあげる』
ということです。
例えば、学校の成績が下がったとき、不登校になったとき、拒食症になったとき、「なぜ?」「どうして?」「きちんとしなくちゃダメでしょ」「もっとちゃんと頑張ってよ」様々な思いが湧き上がります。
それは、親自身が子どもの成長のために必要と思われる条件を考え、子どもにそれを実践するように求めていたにもかかわらず、その道から子どもが外れそうになっているからです。
最初は「子どものために」という思いから求めたはずの条件です。
子どもの将来のために「学校に行ってほしい」「勉強を頑張ってほしい」「健康でいてほしい」親であれば当然、求める条件です。
それがときとして、“子どもという存在を受け入れるかどうか”の物差しになり、子どもを裁く条件に変わってしまうのです。
自分の思い通りにならないと、子どもの存在自体が許せなくなり、受け入れられなくなる。
子どもを愛しているからこそ求めた条件であったにもかかわらず、“親の心を安心させてくれるから”という理由でいつの間にか条件こそが大事なものになってしまい、条件を満たさない子どもは親を不安にさせる存在なだけで受け入れらない。
そうした矛盾が生じてくるのです。
違うでしょ。
本当は子どもが生まれてくれて、そこに生きてくれているだけでもありがたいことだったんではなかったでしょうか?
成績が下がっても、素直に話をしてくれたり、笑って遊んだりしてくれているなら、そこにはまだ幸せがあるんじゃないでしょうか?
拒食症になっても、まだ生きてくれているなら、そこにはまだ健康を取り戻すチャンスはあるんじゃないでしょうか?
子どもが問題を起こして挫折したときには、条件を求めるのを一旦、やめましょう。
子どもだって、親が条件を求めていることくらいわかっています。
それでも、その条件を満たせない心の状態になってつらいんです。
多くの場合、心の奥では自分を責めています。
そんな子どもに、さらに条件を求め続けるなんてかわいそうじゃないかな。
あきらめて腹をくくりましょう。
条件を求めるのをあきらめて、何の条件も満たしていない子どもを受け入れてあげましょう。
存在そのものを受け入れてあげましょう。
条件を求めるから焦るんです。
条件を求めるから不安になるんです。
あきらめて腹をくくったなら、親の心にも余裕が生まれます。
親があきらめて腹をくくってくれたなら、子どもの心には安心感と余裕が生まれます。
何度も言うように“言うは易く行うは難し”ですが、子どもに何か問題が起きたときの心構えとして最初に大事なのは、
『あきらめて腹をくくる』
ということです。
【思春期】子どもの心を見つめる
2013年11月11日
子どもの心を見つめる
子どもが心を開きかかってくれたなら、大事なのはその「心を見つめる」ことです。
「心を見つめる」とは、どういうことでしょうか?
まず、人間観として大切なダイヤモンドの心を信じて見てあげるということです。
子どもが心の奥に持っている『本当の自己は、ダイヤモンドの心』です。
これが、子どもが本来持っている魂の本質です。
この本当の自己が芽生えてくれば、子どもが立ち上がるのは時間の問題です。
では、こうしたダイヤモンドの心があるにもかかわらず、子どもはなぜ様々な問題行動や症状を引き起こすのでしょうか?
それは育てられる過程の中で、親や先生、テレビやインターネットなどから受けた価値観、あるいは友達など人との比較から、「偽りの自己」とも言うべき新たな自己が生まれてくるからです。
「偽りの自己」とは、不安、恐怖、絶望、劣等感、嫉妬、愚痴、不平不満、悪口、文句、怒り、恨みなど、誰もが本来、望まない思いや感情です。
この偽りの自己は、誰にだってあります。
しかし、一面の青空を雲が覆い尽くすように、偽りの自己で本当の自己が覆い隠されたとき、その人は完全に自分を見失ってしまいます。
本当の自己の心が見えなくなり、偽りの自己の姿が自分そのものだと思うようになるのです。
そうなると、自分が何をしたいかさえわからなくなり、夢や希望といったものは一切、なくなってしまいます。
ちょっとしたことでまわりの人にあたって、人のせいにするようになります。
「自分なんて何の価値もない」と言って自分責めたり、「死んだ方がましだ」と言って投げやりになったりします。
その心はいつももやもやとしていて苦しく、どうしようもない悲しみに襲われることもあります。
この偽りの自己が、問題行動や病的な自己に基づく精神症状などを引き起こすのです。
問題行動や症状の背景にある偽りの自己を見つめ、いかにしてこの偽りの自己を克服するか?
それが子どもとの関わりにおいて大事なポイントです。
もし偽りの自己が小さくなると、雲が薄くなり、その合間からは太陽の光が射し始めます。
すなわち、本当の自己であるダイヤモンドの心の輝きが見え始めます。
その光とともに、子どもは立ち上がるのです。
偽りの自己は、誰に対しても嫌な顔をしない“いい子”でいようとし続けている子どもにもあります。
どこか無理をしているのです。
偽りの自己は、衝動的な感情にとらわれて、自傷行為や暴力、犯罪行為を行う子どもにもあります。
自分を見失っているのです。
偽りの自己と本当の自己。
心を見つめるとは、この2つの自己を見抜くことであると言って過言ではないと思います。
【思春期】どのような人間観を持って子どもと接するのか?
2013年11月11日
どのような人間観を持って子どもと接するのか?
人の心を見つめるとき、一番大切なのはその人の持つ人間観です。
例えば、本当にどうしようもないように見える子どもがいるとします。
そうした子どもは、自分は自分を肯定しているのかと言うとほとんどの場合、そうではありません。
自分でも「どうしようもないダメなヤツだ」と思っています。
ただ99%ダメだと思いながらも、1%はどこかに希望の光を求めているものです。
そんな子どもにもし、親、教師、あるいは医者などが「本当にどうしようもないヤツだな」とレッテルを貼ったなら、どうなるでしょうか?
まさに、心の奥に灯っていた1%の光を消すことにさえなりかねません。
実際、私も多くのそうした絶望的な子どもたちに出会ってきました。
ある少女は「私みたいな人間は生きていく価値も何もない」と言いました。
ある少女は「やれることは何でもやってきた。夢なんて何もない」と言いました。
ある少年は静かに自殺しようとしました。
そうした子どもと関わるときの大人の自己防衛反応として、“見て見ぬふりをする”ことがあります。
要するに、その子どもの心の絶望を見ないでそれ以上は考えないようにし、意味をなさない表面的な関わりだけを行うのです。
なぜか?
もし子どもの絶望の心を見たならば、大人であっても自らの心が圧倒されそうになるからです。
子どもの絶望の心を見つめ、そこから逃げずに対峙するにはそれだけの覚悟が必要です。
その絶望に対抗できるだけの心が必要です。
その心が、子どものダイヤモンドの心を信じる心です。
どんな子どもであっても、その奥には優しさ、思いやり、誠実、正直、勇気、善に満ちたダイヤモンドのようにきらめく心があります。
ダイヤモンドの心の存在を信じられるか?
子どもの心の奥には、ダイヤモンドの心があるという人間観を持てるか?
そうした人間観こそが、子どもの心の光を引き出すのです。
絶望の淵にいた子どもに対して、絶対にダイヤモンドの心があると信じ、決してあきらめずに関わり抜いたその結果、鮮やかに彼らは変わりました。
別人のように、前向きな人生を生きるようになりました。
ダイヤモンドの心を信じる関わりだけが、絶望の淵にいる子どもに光をもたらす可能性があるのではないかと思います。
最後に最も大切なのが、この人間観であると思います。
【思春期】「心を見つめる」という言葉を受け入れられるか?
2013年11月11日
「心を見つめる」という言葉を受け入れられるか?
症状や問題を引き起こしている子どもが心を開いてくれたなら、その心を見つめることが大切なことではないかと思います。
しかし、その「心を見つめる」という言葉そのものは、誰もが受け入れられるものなのでしょうか?
医学の世界では、基本的に心という言葉は語られません。
心とは科学的には証明できないものであり、心は全て脳の働きによるものだと理解されようとしています。
脳の働きと考えると科学的な感じがしてもっともなような気がしますが、現実にはひとつの仮説に過ぎません。
宗教家や歴史上の偉人が述べるように、心は脳というものを超えたこの世では実体の見えない存在である可能性もあります。
いずれにせよ、大事なのは目の前にいる子どもの心を幸せに導くことです。
そのためには、心が全て脳の働きによるものだとする考え方に行き過ぎると問題が出てきます。
実際、こうしたことを語る医者もいます。
「実際はすべて脳の問題なのだから、薬による治療を行うしかない。
それでもよくならないのは、まだ研究が進んでいないからであり、これからさらに研究していくことが大事だ」
非常にもっともらしく聞こえるのですが、こうした医者のとる態度は
「薬でよくならない場合には仕方ない(どうしようもない)」
すなわち、あきらめるという姿勢なのです。
脳が心の働きのすべてを司っているという考えには、人に対して、まさに“心”ない冷たい関わりを生み出す可能性があります。
人には心があり、心というものはやさしさや愛に反応します。
そこに決してあきらめることのできない人間の可能性があります。
原因を追求していこうとする研究や分析は科学を発展させ、人間の幸福に寄与するものであります。
しかし、それとともに現実に今を生きている人に対しては、原因が何であれ、結果が大事なのです。
人の心を幸せにするという結果をもたらすためには、「心を見つめる」という姿勢が不可欠であるのは言うまでもないことだと思います。
【思春期】人はどのようにして心を開くか?
2013年11月11日
人はどのようにして心を開くか?
子どもの心を開くには、
「子どもを許してあげる」
「ありのままの子どもを受け入れてあげる」
ことが大切だと言いました。
それは大人にもあてはまることです。
人は“自分を受け入れてくれない、認めてくれない人”の言うことは聞こうとしないものです。
「どうせ、私のことなんて認めていないんでしょ」と思った瞬間に、その人の言葉は内容のいかんにかかわらず、脳の中で自動的にシャットアウトしてしまうのです。
人は子どもだけに限らず、大人であっても、
「私のことをわかってくれている」
「私のことを認めてくれている」
という感覚を求めています。
わかってくれている人、認めてくれている人の言葉であれば聞こうと思います。
少々、耳障りなことを言われても、許して耳と傾けてみようかと思います。
相手に言葉が通じないとき、相手に「わかっているよ」「認めているよ」という感覚が伝わっているかどうか、そうしたことを振り返ってみてはどうかなと思います。
人は、
「自分が話すときには、理屈で話をしがちです」
が、
「自分が聞く側になったときには、こうした感情で聞くか聞かないかを判断しています」
ですから、人に影響を与えたい、子どもに影響を与えたいと思うなら、理屈だけを述べていてはダメで、感情に働きかけることが大事になります。
私は講演で話すときには、理論だけではなく、具体的な実例をあげてよく話します。
そうした話は自分に置き換えて考えやすく、自分に置き換えると感情移入しやすくなるからです。
感情が動くと心が開き、相手の言葉が心の中に入ってきます。
心の中に入ってきて初めて、人はこれまでと違った行動をとることができるようになるのです。